2016年4月28日
テンプル騎士団の秘密と女神との繋がり
http://www.joannakujawa.com/the-secret-of-the-knights-templar-and-the-goddess-connection/
以前の私のブログ記事で説明しきれなかったテンプル騎士団と古代エジプトの神秘、それからマグダラのマリアについて、今回の記事で補足させていただきます。
https://www.joannakujawa.com/mary-magdalene-the-heretics-kings-and-lovers/
マグダラのマリア、異端者、王、恋人たち
以前のこちらの記事でマグダラのマリアとトルバドゥールとカタリ派の繋がりについて論じました。いずれも南フランスに関連しており、その中心には古くから続くマグダラのマリア信仰がありました。「異教徒」のカタリ派は13世紀に虐殺されました。表向きの歴史では、カタリ派の物語はモンセギュール城が1243年に陥落し、210名の異教徒たちが火あぶりの刑に処されたと同時に終わりを告げたとされています。
実は、その時ほんの数名ですが、財宝を持って脱出に成功していたのです。現在では、カタリ派は非常にスピリチュアルな人々で、マニ教にも関連したグノーシス派の教えを受け継いでいるようです。カタリ派の財宝は物質的な価値を持ったものだったとは考えにくいです。カタリ派は財宝を守るために殉職していっただけでなく、それをモンセギュール城を攻めてきた兵士と分けることで生き永らえることはできたはずだからです。もちろん、兵士たちも城を陥落させないと自分たちが火あぶりの刑になると知っていたので必死でしたが。いずれにせよ、カタリ派の財宝は霊的な意味合いがあるものだったのではないかと思います。もしかしたら、誰もが求めてやまない、宇宙的な何かだったのかもしれません。
学会でのルールを無視して自由に研究できる状況にいる研究者たちは、このことに気づいています。そんな彼らの研究経過を少し覗いてみましょう。
まず、城が陥落する前に、数名が恐らく財宝とその秘密を持って脱出したと考えられてます。ですが、一体誰が、どのような知識を持って生き延びたのでしょうか?そこで考慮すべきなのがテンプル騎士団です。彼らも、命を賭してでも守り抜きたいと思っていた神秘の財宝を持っていたと考えられています。その財宝は、カタリ派が処刑された後の1307年に地中に埋められたとされています。
テンプル騎士団とは、誰だったのでしょうか?
歴史の教科書には、テンプル騎士団は十字軍の一派であり、聖地へと赴く巡礼者を守るのが仕事と書かれています。しかし、フレディ・シルバが著書の「The First Templar Nation」の中で論じているように、これは真実を隠す為の煙幕に過ぎません。彼は11人(!)の騎士からなる騎士団の歴史を遡っていきました。すると、この団員は皆既に裕福で、これ以上の富を求める理由がない人達だったことが分かりました。そんな彼らが聖地に何を求めて旅立ったのでしょうか。彼らが1104年にエルサレムに到着した際、彼らがやっていたのは戦場に向かうことではなく、神殿の丘に眠る財宝を探しに行くことでした。
シルバが述べたように、騎士団員たちは既に裕福でした。ですから、さらに富を蓄えようという動機はありませんでした。神殿の丘の下に秘密の部屋を見つけ、そこにあった初期グノーシス派のエッセネ派の秘密の巻物を見つけ、上級イニシエーションを受けた古代の者たちの教えを受け継いだという説には、シルバは反対しています。シルバが主張しているのは、その巻物は「霊的な法」について書かれたものであり、恐らくそれが契約の箱アークであったということです。(ソロモン神殿はアークを保存するという目的のためだけに建設されました。そして紀元前586年にバビロニア人によって破壊されました。)
テンプル騎士団がそこで何を見つけたのか、その確証はどこにもありません。ですが、そこで何かを見つけたことだけは確実なのです。それから数十年後ほどで、彼らは突然そこを去り、ヨーロッパへ向かいました。そこでLambert de Saint-Omerやその知人や学者たちと面会し、それらの文書の解読を依頼していたのです!Saint-Omerの死後、解読作業はカバリストのラビであったソロモン・ベン・イザクに託されました。(彼もテンプル騎士団員の知人でした。)
シルバはこの文書は「形成の書」のようなものであり、この世の全ての謎を解き明かす聖杯伝説のような、具現化の公式が書かれていたものだと主張しています。
詳細まで話すと長くなってしまいますが、シルバの唱えるこの説に反論することは難しいです。何故なら史実として、テンプル騎士団はその後現在の一兆ドルに及ぶ富をわずか数年のうちに築き上げたのですから。テンプル騎士団はヨーロッパ中に、独立した連合体を作っていき、そこにゴシック調の大聖堂を建ててまわりました。そして、それらの大聖堂はすべて「聖母」に捧げるものであり、神聖幾何学の原理が使われた建物だったのです。
なぜ、「聖母(フランス語でノートルダム)」なのでしょうか?
私のようにカトリック系の家に育てられた人なら、聖母がイエスの母のマリアのことを言っていることはすぐにお分かりになると思います。ですが、シルバが主張しているのはこのマリアのことではありませんでした。これらの建物の多くは、7月22日の「マグダラのマリアの祝宴」を記念して建てられたものだったのです。非常に興味深いことだと思われませんか?
サンタ・マリア・ド・オリヴァル教会 |
それだけではありません。これらの教会(大聖堂)の多くは、実は古代の女神イシスの神殿跡に建てられたものだったのです。シルバの本ではポルトガルのトマルにあるサンタ・マリア・ド・オリヴァル教会について深く論じられています。トマル(Tomar)はタマル(Tamar)は似ていますね。「タマル」はマグダラのマリアとイエスの間にできた娘の名前として、いくつかの伝説では知られています。(サーラとも呼ばれているようです。)
不思議な事に、タマルはソロモン王の娘の名前でもあります。ミステリースクールの教えでは、タマルは「ヤシの木」という意味であり、復活の儀式のシンボルなのだといいます。したがって、シルバはサンタ・マリア・ド・オリヴァル教会はテンプル騎士団が高レベルのイニシエーション儀式を行っていた場所だと考えています。その儀式は、古代エジプトのミステリースクールにおいて女神イシスの秘儀とされていたもののようです。(女神イシスは男神オシリスの復活を試みていました。)
作家のマーガレット・スターバードによれば、マグダラ(Magdakene)という名前はMagdal-ederと分けることができ、「エルサレムの娘」という意味なのだそうです。スターバードもマグダラのマリアとソロモン神殿と古代エジプトのミステリースクールを結び付けている一人です。
ここで、女神とテンプル騎士団の関係性を整理してみましょう。
1. テンプル騎士団は神殿の丘ですごいものを見つけ、それをヨーロッパに持ち帰って解読した。
2.その後テンプル騎士団は短期間でものすごい裕福になった。(キプロス島すら所有していた)
3.ヨーロッパ各国に聖母(ノートルダム)に捧ぐゴシック調の大聖堂を建設した。
4. テンプル騎士団にとっての重要な日は、マグダラのマリアの祝宴の日(7月22日)
5.大聖堂が建てられた場所は、かつて(イシスなどの)女神信仰があった地。
その後
1307年の10月13日の金曜日、テンプル騎士団は火あぶりの刑に処されました。(どこかで聞いたことありますね) 教科書では、フランス王のフィリップ4世が以前にユダヤ人をフランスから追い出したのと同じように、テンプル騎士団を(お金を稼ぐために)追放したのだと言われています。団員は捕らえられ、拷問され、リーダーは火あぶりの刑にされました。その財産は一体どれほどなのだろうと、王たちは期待を膨らませていました。しかし、結局王はテンプル騎士団の後ろには何も残ってなかったという事実だけを目の当たりにしたのでした。
シャルトル大聖堂の迷宮 |
拷問を受けた団員たちは、何も言わなかったか、嘘の話で王を混乱させたりしました。例えば神秘の財宝が北のノルマンディー地方のジゾーという場所に隠してあると言ったりしました。その間、そこから500㎞ほど離れたラ・ロシェルの港には18隻の船が並び、脱出に成功したテンプル騎士団たちの帰りを待っていました。シルバは、恐らく彼らはポルトガルか北スコットランドに逃げたのではないかと推測しています。ポルトガルにはその後すぐにテンプル騎士団が結成されました。面白い事に、シルバは「ポルトガル Portugal」という言葉は「Por Tu, O Gral」という文に聞こえなくもないと言っています。「あなたを通る、ああ、聖杯(グレイル)よ。」という意味になります。これはシャルトル大聖堂にある契約の箱アークのイメージについての合図だとも言われています。ちなみに、シャルトル大聖堂もテンプル騎士団が所有していました。
現代の聖杯伝説との違い
南仏のマグダラのマリア洞窟 |
まず、マーガレット・スターバードが著書「The Woman with the Alabaster Jar」の中や、マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン著の大ベストセラー「レンヌ=ル=シャトーの謎 - イエスの血脈と聖杯」の中で論じられているように、「聖杯とはマグダラのマリアの子宮のこと」だとされています。彼女とイエスの間にはサーラもしくはタマルと呼ばれる娘がおり、彼女はフランスのメロヴィング朝の血脈だと言われています。
歴史的には、メロヴィング朝は中世初期にはフランス王族としては存在していなかったとされています。
マリアの娘の子孫は、どこにいたのでしょうか?
それは誰にも分かりません。どの王朝も、「自分は神性な血脈だ」と主張していますから。王族はどこも信用なりません。
ですが、マグダラのマリア信仰は今日も南フランスの地で脈々と続いているそうです。
あなたはこの話を信じますか?
王族が信用ならない人であれば、霊的探求者として物事を見つめてみるのをお勧めします。
王や女王のDNAが重要なのではなく、宇宙や人間の究極の然についての神秘を数世紀に渡って継承し続けてきた一族が存在するということが興味深いことではないでしょうか。
霊的探偵Dr Joanna Kujawaより
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